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フォルクスワーゲンの車種一覧(現行車種・過去車種)

フォルクスワーゲンの現行車種一覧

トゥアレグパサート/パサートワゴン / シャラン / ティグアン / ゴルフ・トゥーラン / ゴルフ / ゴルフGTE / ザ・ビートル/カブリオレ / ポロ / up

フォルクスワーゲンの過去販売車種

タイプⅠ

 

フォルクスワーゲンの概要

ドイツの大手自動車メーカーであるフォルクスワーゲン(VW)AGは、戦前のヒトラーによる国民車構想が誕生のきっかけとなり、現在は12のブランドから形成される巨大なグローバル企業、フォルクスワーゲン・グループの主力ブランドともなっています。コーポレートマークはVolkswagenで、ブランドシンボルは円形の内側に縦書きのVWのロゴを入れたものが使用されています。

フォルクスワーゲンAGの概要(2016年度)

  • 本社所在地:ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州ヴォルフスブルク
  • 設立:1937年5月28日
  • 設立時の名称:フォルクスワーゲン公社
  • 代表者:マティアス・ミュラー(CEO)
  • 資本金:575億3,900万ユーロ(※2011年12月31日現在)
  • 売上高(グループ全体):2,172億6,700万ユーロ
  • 営業利益(グループ全体):51億4,400万ユーロ
  • 従業員数:フォルクスワーゲン単体 213,197人、グループ全体626,715人
  • 販売台数:フォルクスワーゲン・ブランドのみ 599万台(内、日本47,726台)、グループ全体 1,031万台

事業内容はフォルクスワーゲン単独では4輪車の製造・販売となるものの、グループ全体としては2輪車やディーゼルエンジン単体の製造・販売なども手掛けています。グループ内のブランドは、乗用車メーカーとしてフォルクスワーゲンのほかにアウディ、ポルシェ、ランボルギーニ、ブガッティ、ベントレー、シュコダ、セアトを、商用車およびエンジンメーカーとしてフォルクスワーゲンコマーシャルベヒクルズ、スカニア、マンを、2輪車メーカーとしてドゥカティを擁しています。

生産拠点はオセアニアをのぞく世界120か所に存在し、日本における輸入販売は100%出資子会社のフォルクスワーゲングループジャパンにより行われています。

ブランドスローガン

Volkswagen(国民車)

フォルクスワーゲンの沿革

1930年代:国民車KdFの誕生

1933年にドイツ帝国の総統となったアドルフ・ヒトラーは、同年に1.最高速度100km/hで走行できること、2.燃費は100km/7L以下であること、3.4~5人乗りであるとこ、4.エンジンは空冷式であること、5.価格は千マルク以下であること、という5つの条件からなる国民車構想を提唱、翌1934年にその構想の実現を自動車技師フェルディナント・ポルシェ博士に委ねました。

そして1936年2月、「VW3」と呼ばれる2台のプロトタイプが完成しました。甲虫を彷彿とさせるフォルムを持つ2ドアセダン型ボディのディメンションは、全長3,900mm×全幅1,500mm×全高1,500mm、ホイールベース2,400mmでした。サスペンションはフロントがトレーリングアーム/トーションバー式、リアがスウィングアーム・トーションバー式による4輪独立懸架という、当時としては先進的な機構が採用されました。

駆動方式はRRで、エンジンは空冷985cc水平対向4気筒OHV(最高出力22ps)が搭載されました。エンジンも、SVが一般的であった当時としては先進的なものでした。追って改良を加えた「VW30」が30台製造され、RDA(ドイツ帝国自動車産業連盟)により大規模な走行テストが実施されました。VW30はヒトラー自身により「KdF(歓喜力行号)」と名付けられたのち、翌1937年5月に設立された国家組織、フォルクスワーゲン公社により生産が開始されました。

そして1938年、最終試作車「VW38」44台が完成しました。しかし、翌1939年に第二次世界大戦が勃発、KdFの生産工場は軍需工場に転用されたため、民需用Kdfの生産は中止されました。戦時中は軍用に改造されたKdFや、それをベースとした多目的軍用車「キューベルワーゲン」「シュビムワーゲン」などが生産されました。

1940年代:KdF改めタイプⅠを量産化

そして1945年5月にドイツの敗戦をもって戦争が終結すると、工場の管理のために派遣されたイギリス軍少佐アイヴァン・ハーストがKdFの価値を見抜き、車名を「フォルクスワーゲン・タイプⅠ」に変更した上で同年連合軍向けに量産を開始しました。また、フォルクスワーゲン公社は有限会社に改組されました。

タイプⅠのボディ・ディメンションは全長4,064mm×全幅1,549mm×全高1,500mmで、エンジンは排気量1,131cc(最高出力25ps/最大トルク6.8kgm)のフラット4が搭載されました。そして翌1946年10月に早くも累計生産台数1万台を達成、追って1947年にはオランダ向けの輸出が開始されました。その後、民需用途の開拓を目指すとともに、サービス網が確立されました。

そして翌1948年1月、ハースト少佐の後を継ぐ工場責任者として、ドイツ人のハインリッヒ・ノルトホフが就任しました。この新体制の元で、翌1949年にタイプⅠの新たなバリエーションとしてカルマン社がボディワークを手掛ける4シーターカブリオレと、ヘブミューラー社がボディワークを手掛ける2シーターカブリオレが追加されました。

1950年代:タイプⅡが登場

次いで1950年2月には、タイプⅠをベースとしたワンボックス車「タイプⅡ」が発表されました。当初は「デリバリーバン」と呼ばれる貨物用モデルのみであったものの、のちに貨客両用の「コンビ」や乗用モデル「マイクロバス」などが追加されました。続いて1952年にカナダに、追って翌1953年にブラジルに現地法人が設立されました。

さらに1955年には、アメリカにも現地法人が設立されました。また、この年の8月に、タイプⅠをベースにカルマン社が流麗な2ドアクーペ型ボディを架装した「カルマン・ギア」が発表されました。全長4,140mm×全幅1,634mm×全高1,330mmというワイド&ローなディメンションを持ち、エンジンは1,192ccフラット4(最高出力30PS/最大トルク7.7kgm)が搭載されました。

1960年代:アウトウニオン(現アウディ)を傘下に

次いで1961年9月、タイプⅠの後継車と位置付けられた「タイプⅢ」が発表されました。近代的な3ボックス型ボディの採用により居住性が改善された一方、RRレイアウトや空冷フラット4エンジンなどの基本メカニズムはタイプⅠ譲りのものでした。続いて1964年、メキシコに現地法人が設立されました。

次いで1965年、アウトウニオン社(現アウディAG)を傘下に収め、同年9月には戦後初めてアウディの名を持つ乗用車「アウトウニオン・アウディ72」が発表されました。続いて1968年、タイプⅢの発展型といえる「タイプⅣ」が発表されました。次いで1969年8月、NSU社を吸収してアウトウニオン社と併合、アウディNSUアウトウニオン社が誕生しました。

追って同年末に、ポルシェ社との共同開発による2シータースポーツカー「フォルクスワーゲン・ポルシェ・911」が発表されました。ポルシェ社のデザインによるボディはタルガトップ仕様で、駆動方式はMR、エンジンはタイプⅣ譲りの1.7Lフラット4と「ポルシェ・911T」用の2Lフラット6が用意されました。

1970年代:ゴルフの大ヒットで経営不振から脱却

次いで1970年7月、NSUが完成させていたモダンな中型セダン「K70」がフォルクスワーゲン・ブランドより発表されました。FFの駆動方式や水冷エンジンの採用など、それまでのフォルクスワーゲン車とは対照的なメカニズムが特徴で、新世代のフラッグシップとして位置付けられました。続いて1972年7月、タイプⅠが「T型フォード」が持っていた単一車種累計生産台数の記録を塗り替える1,500万7,034台を達成しました。

次いで1973年7月、初めてフォルクスワーゲン独自で開発したFF車となる「パサート」が発表されました。デザインを手掛けたのはジョルジェット・ジウジアーロで、ボディタイプは3ドア/5ドアハッチバックとステーションワゴンが設定されました。エンジンは、1.3Lおよび1.5Lの水冷直4SOHCが用意されました。

続いて翌1974年3月には、カルマン社がボディワークを担当するハッチバッククーペ「シロッコ」が発表されました。さらに同年5月、パサートよりも小型の新型ハッチバック車「ゴルフ」が発表されました。引き続きジウジアーロによりデザインされたボディのサイズは、全長3,730mm×全幅1,610mm×全高1,410mmで、駆動方式はパサート同様のFF、エンジンは1.5L直4SOHC(最高出力70ps/最大トルク11.4kgm)が搭載されました。

ゴルフは、優れたパッケージングやトータルバランスにより他社からこのクラスのベンチマークと見なされました。また、販売面でも大ヒットし、タイプⅠの後継車種がいずれも商業的失敗に終わり厳しい経営状況に陥っていたフォルクスワーゲン社にとって、起死回生の作となりました。次いで1975年3月、ゴルフの弟分となるコンパクトカー「ポロ」が発表され、こちらもヒット作となりました。

その後、1978年1月にヨーロッパでのタイプⅠセダンの生産が終了となりました(メキシコ/ブラジル工場で生産を継続)。

1980年代:日産、トヨタと提携

そして1980年代に入ると、同年1月に最後のタイプⅠカブリオレが工場からラインアウト、これをもってヨーロッパにおけるタイプⅠの生産はすべて終了となりました。また、この年にパサートの4ドアセダン版となる「サンタナ」が発売されました。翌1981年には日産自動車と提携が結ばれ、1984年から日産自動車によるサンタナのノックダウン生産が開始されました。

さらに同年、フォルクスワーゲン初の4WD車となる「パサート・ヴァリアント・シンクロ」が発売されました。

次いで1985年、スペインの自動車メーカーであるセアト社と技術援助協定が締結されました。続いて1987年におトヨタ自動車と生産協力協定を締結、1989年にその成果となるピックアップトラック「タロー」が発売されました。また、この年の8月に日本法人のフォルクスワーゲン アウディ日本が設立されました。

1990年代:さまざまな自動車メーカーを傘下に

次いで1990年、チェコスロバキア(当時)の自動車メーカーであるシュコダ社を傘下に収め、翌1991年にはセアトを完全子会社化しました。続いて1995年、フォルクスワーゲン初のミニバンとなる「シャラン」が発売されました。フォード社との共同開発によるモデルで、セアト・ブランドからも「アルハンブラ」の車名でリリースされました。

次いで1998年、イギリスのロールス・ロイス(およびベントレー)社を傘下に収めたほか、フランスに超高級スポーツカーの生産を事業目的としたブガッティ・オトモビルが設立されました。また、同じ年に、タイプⅠをモチーフとしたパイクカー「ニュービートル」と、ポロよりもさらにコンパクトなボディを持つエントリーモデル「ルポ」がリリースされました。

ニュービートルはタイプⅠを彷彿とさせるスタイリングを持っていたものの、ゴルフをベースとするため、メカニズムはタイプⅠとはまったく異なるFF方式+水冷直4エンジンとなっていました。次いで1999年には、イタリアのランボルギーニ社がフォルクスワーゲングループの一員となりました。さらにこの年、ルポに3Lの燃料で100km走行できる「3リッターカー」を謳うエコグレード「TDi」が追加されました。

2000年代:初のクロスオーバーSUVを発売

次いで2002年、フォルクスワーゲン初のクロスオーバーSUV「トゥアレグ」が発売されました。ポルシェとの共同開発によるモデルで、「ポルシェ・カイエン」とはプラットフォームを共有する姉妹車種の関係にありました。全長4,755mm×全幅1,930mm×全高1,730mmという大柄なボディに搭載されるエンジンは、3.2Lまたは4.2LのV8で、駆動方式はフルタイム4WDシステムの「4X MOTION」が採用されました。

また、同じ年に、フォルクスワーゲンが推し進めていた高級化路線を具現化したプレミアムサルーン「フェートン」がデビューしました。次いで2003年1月、ベントレー・ブランドを残し、ロールス・ロイス・ブランドがBMW社に委譲されました。追って同年7月、メキシコ工場で続けられていたタイプⅠの生産が終了、同車は市場から完全に姿を消すこととなりました。そして2009年、スズキとの包括的業務資本提携が発表されました。

2010年代:排出ガス規制不正問題が発覚

その後2011年に、スズキとの関係悪化により業務資本提携が解消されました。次いで2012年、ポルシェを完全子会社化するとともに、イタリアの2輪車メーカーであるドゥカティ社をグループ傘下に収めました。続いて2013年、111km/Lという驚異的な低燃費を誇る超エコカー「XL1」が発表されました。

全長3,888mm×全幅1,665mm×全高1,153mmのコンパクトなボディは、カーボンモノコック構造の採用により795kgと軽量に抑えられていました。また、Cd値0.189という極めて優れた空力特性が備わることも特徴でした。乗車定員は2名で、ドアはガルウイング式が採用されました。駆動方式はRRで、パワートレインは0.8L直2ディーゼルターボと電気モーター、そして7速DSGを組み合わせたハイブリッドユニットが搭載されました。

そして2015年9月、ディーゼルエンジンを搭載する一部車種の排出ガスが、規制値を大幅に上回っていることが発覚しました。さらに、ガソリン車の一部に二酸化炭素排出量の不整合があったことも明らかになるなど、世界各国を巻き込む大きな社会問題となりました。それにより、販売台数の減少や株価の下落、最初に問題が発覚したアメリカにおける巨額の賠償請求などにより、苦境に陥りました。

しかし、翌2016年には販売台数・純利益とも回復し、ことにグループ全体の販売台数はトヨタ自動車を抜き初の世界一となりました。