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三菱自動車の車種一覧(現行車種・過去車種)

三菱自動車の現行車種一覧

デリカD:5アウトランダーエクリプスクロスRVRデリカD:2ミラージュeKスペースeKクロスeKワゴン

三菱自動車の過去販売車種

エクリプスエメロードギャラン/ギャランΣギャランΛ (ラムダ)コルトシャリオ/グランディスジープスタリオンストラーダディアマンテディオンディグニティチャレンジャーデボネアトッポトレディア/コルディアパジェロパジェロミニ/ジュニア/イオプラウディアミニカランサーレグナムFTOGTO

三菱その他

三菱自動車の概要

日本の自動車メーカーである三菱自動車工業株式会社は、岩崎弥太郎により設立された三菱商会を源流に持つ三菱グループの一員であると同時に、現在はルノー=日産アライアンスの一員となっています。コーポレートマークは「MITSUBISHI MOTORS」で、ブランドシンボルは岩崎家の家紋「三階菱」と土佐山内家の家紋「三つ柏」に由来するとされるスリーダイヤ・マークとなっています。

主な事業内容は自動車の製造・販売で、事業所は日本国内のほかアメリカ、中国、ロシアなど海外9か国に展開しており、関連企業は国内外に35社を擁しています。また、主要株主は筆頭株主の日産自動車をはじめ、三菱商事、三菱重工業、三菱東京UFJ銀行となっています。

三菱自動車工業株式会社の概要(2017年3月31日現在)

  • 本社所在地:東京都港区芝5-33-8 
  • 設立:1970年(昭和45年)4月22日、創業:1870年(明治3年)
  • 設立時の名称:現在と同じ
  • 代表者:カルロス・ゴーン(取締役会長)、益子修(取締役CEO)
  • 資本金:2,843億8,200万円(2016年3月末現在)
  • 売上高:1兆9,066億円(2016年度)
  • 従業員数:連結29,604人、単独13,222人
  • 販売台数:92万6千台

コーポレートビジョン

企業理念

大切なお客様と社会のために、走る歓びと確かな安心を、こだわりをもって、提供し続けます。

三菱グループ三綱領

  • 所期奉公=期するところは社会への貢献
  • 処事光明=フェアープレイに徹する
  • 立業貿易=グローバルな視点で

三菱自動車の沿革

1870年代~1940年代:三菱の誕生と自動車の発売

1870年、岩崎弥太郎により海運会社の九十九商会が設立され、1873年に三菱商会に改称されました。その後1917年に三菱造船が設立されるとともに、三菱ブランド初の市販自動車「三菱A型」乗用車の製造が開始されました。ヨーロッパ車を参考に設計されたモデルで、ハンマー打ち作りのフレームに木製ボディを架装、鋳鉄製のエンジンが搭載されました。

塗装は漆塗りで、室内には英国製の高級毛織物が使用されました。1921年までに計22台が製造され、三菱系自動車販売会社「大手商会」の手により販売されました。次いで1932年に「三菱ふそうバス」が完成、追って1934年には社名が三菱造船から三菱重工業に改称されました。続いて1935年に陸軍自動車学校から「野戦指揮官用全輪起動乗用車」の制作依頼を受け、翌1936年には4輪駆動方式の試作車「PX33型」が完成したものの、量産化には至りませんでした。

続いて終戦翌年の1946年6月、三菱重工業水島製作所が戦後初の新型車となる小型3輪トラック「みずしま(XTM1型)」を完成させ、翌1947年5月に「TM3A型」として販売が開始されました。ボディサイズは全長2,780mm×全幅1,196mm×全高1,230mm、荷台長1,100mmで、前面の風防と頭上の幌により最低限の耐候性が確保されていました。

エンジンは、空冷4ストローク744cc単気筒(最高出力15ps)が搭載されました。優れた品質や整備された販売網により商業的に成功、発売後1年間で945台が生産されました。また、この1946年は、戦時中に生産中止となっていたふそうバスの生産が再開された年でもありました。次いで1947年にはスクーター「シルバーピジョン(C-10型)」が発売され、庶民の足として大ヒットしました。

1950年代:ジープを国産化

その後1950年に、過度経済力集中排除法により東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業の3社に分割されるとともに、ふそう自動車販売が設立されました。次いで翌1951年には、東日本重工業により「ヘンリーJ」乗用車の組立販売が開始されました。また、同じ年に中日本重工業と米国ウイリスオーバーランド社との間に、4輪駆動車「ジープ」のノックダウン組立契約が締結されました。

そして社名が新三菱重工業に改称された翌年の1953年に、ノックダウン生産によるジープ第1号車「J1型」が完成、林野庁に54台が納入されました。追って同年7月には、ウイリスオーバーランド社との間に技術援助契約および販売契約が締結され、国産化された「ジープJ3型」が発売されました。ボディサイズは全長3,390mm×全幅1,655mm×全高1,890mmで、エンジンは2.2L直4OHV(最高出力70ps)が搭載されました。

次いで1954年、ヘンリーJの生産が終了となりました。そして1959年10月に、新三菱重工業初の軽3輪車「レオ」が発売されました。全長2,830mm×全幅1,280mm×全高1,520mmのボディには、軽3輪車初のオールスチール製密閉型キャビンが備わっていました。エンジンは空冷4ストローク309cc単気筒OHV(最高出力12.5ps)で、トランスミッションは軽3輪車唯一のシンクロメッシュ機構付き3速MTが組み合わせられました。レオは、性能や実用性の高さなどにより瞬く間にベストセラーとなりました。

1960年代:新型車を続々と投入

そして1960年代に入ると、まず同年4月に新三菱重工業初の4輪乗用車「三菱・500」が発売されました。全長3,140mm×全幅1,390mm×全高1,380mmと当時の軽自動車より一回り大きい2ドアボディはモノコック構造で、同時に日本初の風洞実験の実施による流麗なフォルムを備えていました。駆動方式はRRで、エンジンは空冷493cc直2OHV(最高出21ps)が搭載されました。

次いで1961年4月には、同社初の軽4輪自動車となるライトバン「三菱・360」が発売されました。ボディサイズは全長2,995mm×全幅1,295mm×全高1,400mmで、駆動方式はコンベンショナルなFR、エンジンは強制空冷2ストローク359cc直2(最高出力17ps)が搭載されました。追って翌1962年6月に三菱・500の後継車種「コルト600」が、さらに10月には三菱・360の乗用車版となる「ミニカ」が登場しました。

続いて1963年7月、本格的な小型セダン「コルト1000」が発売されました。ボディサイズはコルト600よりも二回りほど大きい全長3,830mm×全幅1,490mm×全高1,420mmで、駆動方式はFR、エンジンは水冷1L直4OHV(最高出力51ps)が搭載されました。そして1964年6月、分割されていた重工3社が合併し三菱重工業が発足するとともに、三菱自動車販売が設立されました。

次いで翌7月に、高級乗用車「デボネア」が発売されました。全長4,670mm×全幅1,690mm×全高1,465mmという堂々たる体躯のボディは、米国GM社に所属していたデザイナーによるアメリカナイズされたスタイリングを特徴としていました。エンジンは2L直6OHVツインキャブレター仕様(最高出力105ps/最大トルク16.5kgm)が搭載され、最高速度155km/hの性能を発揮しました。

続いて1965年11月、日本初のファストバックスタイルを採用した大衆車「コルト800」が発売されました。駆動方式はFRで、エンジンは「リードバルブ給気自動管制方式」採用の水冷2ストローク843cc直3(最高出力45ps)が搭載されました。次いで1966年8月、キャブオーバー型の小型トラック「デリカ」が発売されました。搭載エンジンは1.1L直4OHV(最高出力58ps)で、翌年にはライトバンやルートバンの追加などバリエーションが拡大されました。

続いて1969年12月、「コルト1200/1500」の後継モデルとなる「コルトギャラン」が発売されました。「ダイナウェッジライン」と呼ばれる斬新なウェッジシェイプが特徴で、エンジンは同社初のSOHC方式を採用した1.3L/1.5L直4が搭載されました。コルトギャランは従来の三菱車のイメージを覆すスタイリングの良さが評判を呼び、大ヒットとなりました。

1970年代:大衆車ランサーやミラージュを発売

そして1970年代に入ると、同年2月に米国クライスラー社(当時)と合弁事業に関する契約が締結されました。次いで同年4月、自動車部門が三菱自動車工業として独立を果たしました。続いて同年12月、同社初のスペシャリティカー「コルトギャランGTO」が発売されました。2ドアハードトップ型ボディはロングノーズとダックテールのフォルムが特徴で、エンジンは1.6L直4が搭載されました。

トップグレードは「MR」で、DOHC方式採用により最高出力125ps/最大トルク14.5kmgの高出力を発生、トップスピードは200km/hに達しました。次いで1973年2月、ミニカ・シリーズとギャランの間を埋める大衆車「ランサー」が発売されました。2ドア/4ドアセダン型のボディは、「エアロノーズライン」やダンブルフォームの採用など空力特性が追求されていました。エンジンは独自の「MCA」システムを採用した1.2L/1.4L/1.6L直4で、米国環境保護庁お墨付きの環境性能が自慢でした。

続いて1978年3月、同社初のFF方式を採用した大衆車「ミラージュ」が発売されました。ボディタイプは当初3ドアハッチバックのみであったものの、追って5ドアハッチバックが追加されました。ボディはスラントノーズやフラッシュサーフェスの採用が特徴で、ディメンションは全長3,790mm×全幅1,585mm×全高1,350mmでした。エンジンは、ランサー譲りの1.2L/1.4L直4SOHCが搭載されました。

1980年代:SUVの先駆者となるパジェロを発売

そして1980年代に入ると、同年5月に中型セダン「ギャランΣ/エテルナΣ」とハードトップ「ギャランΛ/エテルナΛ」にフルモデルチェンジが実施されるとともに、国産車初のエレクトロニック走行情報表示システム「VELNAS」が採用されました。同時に、同社初のターボエンジンとなる2.3L直4ディーゼルターボ(最高出力95ps)搭載車が設定され、さらに11月には2L直4ガソリンターボ(最高出力145ps)搭載車が追加されました。

次いで1981年に米国三菱自動車販売(MMSA)が設立され、翌1982年には三菱商事とともに韓国の現代自動車に10%の資本参加が行われました。また、この年の2月に「ミラージュⅡ」の姉妹車種「ランサーフィオーレ」が発売されました。同車の最大のトピックは、可変排気量システム採用により10モード燃費20km/Lの低燃費を実現した1.4L MDエンジンの設定でした。

次いで同年5月、4WD方式のSUV「パジェロ」が発売されました。無骨なジープと異なり、悪路走破性を追求しながらも乗用車ムードに溢れたモデルで、その後巻き起こったSUVブームの先駆け的存在となりました。さらに翌1983年2月には、国産ミニバンの先駆者の1台となる「シャリオ」が発売されました。ボディ形状は1.5ボックス型で、セダンの運転感覚とキャブオーバー型ワゴンの居住性を併せ持っていました。

次いで1985年、クライスラー社と米国における乗用車生産のための合弁会社設立で合意、翌1986年にはクライスラー社向けV6エンジンの出荷が開始されました。続いて1987年、ダイムラーベンツ社(当時)とベンツ乗用車の国内販売と商用車のヨーロッパ生産などで提携することで基本合意に至りました。次いで1989年、欧州三菱自動車(MME)が設立されました。

1990年代:さまざまな新技術を投入

そして1990年代に入ると、同年3月に軽ハイトワゴンの先駆けとなる「ミニカトッポ」が発売されました。エンジンは新規格に準じた660cc直3で、全高1,695mmの車高を生かした積載性や利便性が持ち味でした。さらに同年5月には、4ドアハードトップ型の高級乗用車「ディアマンテ」が発売されました。

エンジンは電子制御可変吸気システム採用の2L/2.5L/3L V6で、装備面ではドライバーに合わせてドライビングポジションが自動調整される世界初の機構、「三菱インテリジェントコクピットシステム」の採用が特徴でした。次いで1991年、オランダ政府およびスウェーデンのボルボ社との間に乗用車生産合弁計画が締結され、同年ネザーランズ・カーB.V.が設立されました。続いて1992年10月、WRCのグループAホモロゲーションモデルとして、ランサーをベースとした「ランサーエボリューション」が発売されました。

「ギャランVR-4」譲りのVCU付センターデフ方式フルタイム4WDシステムと2L直4DOHCインタークーラーターボエンジン(最高出力250ps/最大トルク31.5kgm)を搭載、軽量・高剛性化や空力性能アップが図られたボディと相まって、高い戦闘力を発揮しました。また、同月に3代目デボネアが登場、こちらは先行車に接近すると警報を発するとともに、ODレンジを解除する世界初の運転支援システム「ディスタンスウォーニング」の採用がトピックでした。

次いで1996年8月にフルモデルチェンジが実施されたギャランに、CO2排出量を大幅に低減した筒内噴射ガソリンエンジン「GDI」(1.8L直4DOHC)搭載車が世界で初めて設定されました。続いて1998年に、超ロングセラーを続けていたジープの生産が打ち切られました。

2000年代~:リコール隠しにより経営危機に

そして2000年代に入ると、同年7月に組織的なリコール隠しが発覚、ブランドイメージが失墜するとともに販売台数が激減しました。そんな状況下において同年10月にダイムラークライスラー社(当時)と資本提携を締結、同社からCEOを迎え入れ経営再建が図られました。しかし、2004年にさらなるリコール隠しが発覚し、ダイムラークライスラー社から提携関係を解消されるなど深刻な経営危機に陥ったものの、三菱グループからの支援により窮地を脱しました。

その後2005年に、「三菱自動車再生計画」が発表されました。次いで2006年1月、卵型のワンモーションフォルムやリアミッドシップレイアウトを採用した斬新な軽乗用車「i(アイ)」が発売されました。専門家筋からの評価は高く、2006年度グッドデザイン賞や2007年次RCJカーオブザイヤーなどに輝きました。次いで2010年4月には、そのEV版となる「i-MiEV(アイミーブ)」が発売されました。

続いて2011年6月、日産自動車と軽自動車事業に関わる合弁会社「株式会社NMKV」を設立、2013年6月にフルモデルチェンジされた「eKワゴン」が協業による第一弾モデルとなりました。次いで2016年4月、日産自動車の指摘により燃費試験の不正問題が発覚、対象となった軽乗用車eKシリーズが販売停止となるなどリコール隠し事件以来の窮地に陥ったものの、同年10月に日産自動車が株式の34%を取得して筆頭株主となり、再建に向けての取り組みが始まりました。